投手部門

1 戎 信行
11 金田 政彦
18 杉本 友
20 川越 英隆
22 小林 宏
27 小倉 恒
28 星野 伸之
33 平井 正史
43 鈴木 平


1軍公式戦出場選手の04年の推定年棒はこちら

1 戎 信行 (02年6月 ヤクルト移籍)


BW在籍最終5年間の成績
年度試合数勝利敗北セーブ防御率
01205903.68
00218203.27
99100003.86
98110006.86
9720004.50

 地元育英高校のエースとして甲子園に出場。その秋のドラフトでブルーウェーブに入団した。その後9年間は、1軍と2軍を行ったり来たりの下積みの生活が続いた。入団時に与えられた背番号は30番で、そのまま99年春のマリナーズキャンプに参加したりもしたが、99年オフに風水でよい結果が出た65番に自ら変更した。
 00年もシーズン序盤から2軍での登板が続いていたが、夏前に先発陣の相次ぐ故障で巡ってきたチャンスでプロ初勝利を飾り、その後も連勝を重ね、不敗神話を作った。その勢いで同年GS神戸で行われたオールスター戦にも選出され、まさにシンデレラストーリーを築いた。
 シーズン終盤はブルーウェーブが連敗を重ねる中で唯一白星を重ね、シーズン途中からの1軍生活だったにもかかわらず、最終登板で規定登板回数に到達し、パリーグ最優秀防御率に輝いた。00年オフには学園都市駅前の「キャンパススクエア」の中に『青波えびす神社』も設置され、「指先に魂を」という彼のモットーも一躍有名になった。また、地元神戸の出身ということもあり、小学校などでも講演会を開いた。
 家庭では1男1女のよきパパでもあり、ご長男の名前をとって「健登パパ」と呼ばれるのが本人の希望であった。02年6月に副島選手との交換トレードでヤクルトスワローズに移籍した。


11 金田 政彦


'97〜'04の成績
年度試合数勝利敗北セーブ防御率
04142705.34
03144504.12
02234902.50
01198504.94
00186603.51
9930111003.49
98104202.79
9771303.49

 97年のシーズンまではずっと直球派の投手だったが、98年シーズンから就任した河村投手コーチと、99年までブルーウェーブに在籍していたマーク投手の教えで技巧派に転向し、シーズン終盤に才能が開花した。9月のある試合で迎えたプロ初完封のチャンスは、その年を最後に引退した佐藤義則投手に9回のマウンドを譲ったことで達成できなかったが、結局9月は4勝負けなしで月間MVPに輝いた。
 その調子を99年も保ち続け、前半戦では一時ハーラーダービーのトップに立ったこともあったが、球界一の細身とも言われる身体が影響したのか、後半は勝ち星が伸びずタイトルには届かなかった。しかしながら、自己最高の11勝を記録した。
 00年はローテーションの柱として開幕から安定したピッチングを続けたが、夏場に膝を故障し、終盤まで登板できない状態が続いたものの、02年には年間通じて安定した投球を披露し、見事パリーグの最優秀防御率のタイトルを獲得した。
 登板する試合の直前はとても無口で、数年前までは普段ファンと写真をとる時も笑わなかったそうだが、とても気さくな性格で、ひそかに「96年にイチローのサヨナラヒットでV2を決めた試合の勝ち投手が自分だ」ということを広めたいらしい。一見プロ野球選手には思えないほど体の線が細いが、野球を大好きになることでプロ野球選手になれると子供たちに語っている。


18 杉本 友 (00年オフ 横浜移籍)


BW在籍4年間の成績
年度試合数勝利敗北セーブ防御率
00194805.73
99102205.40
98160716.04
9783303.35

 00年オフに、3‐3のトレードで横浜に移籍した。
 埼玉県の川越高校卒業後、1年の浪人を経て筑波大学に入学。96年のドラフトで、国立大学出身者としては史上初の一位指名でブルーウェーブに入団した。ちなみに卒業研究のテーマは「マイクロ波照射による凝縮実験」。
 小学生のころは巨人ファン、その後西武ファンになって西武一筋。自分がプロ野球選手になった現在でも、目標とする投手は現在巨人の工藤公康投手らしい。性格は本人に言わせると大の負けず嫌いということ。気分転換でパチンコをするそうで、神戸市営地下鉄の名谷、板宿、西神中央の各駅によく現れていたらしい。
 ルーキーとして97年は8月28日の神戸での対近鉄戦で初登板、初先発して1軍デビュー。9月17日東京ドームでの対日本ハム戦でプロ初勝利をあげた。しかし翌99年、開幕から先発ローテーションの一角を担ったが、結局1勝もあげることができなかった。チーム状態が最悪だったことも大きな要因だが、コントロール難で悩み続けていた。
 00年には開幕から3連勝を飾りエースとして君臨するかと思われたが、その後やはりコントロールに苦しみ、シーズン終盤は2軍生活を余儀なくされた。新天地での開花を祈る。


20 川越 英隆


'99〜'04の成績
年度試合数勝利敗北セーブ防御率
04227904.16
0370304.76
023431504.92
01141506.07
00158603.79
992611802.85

 98年のドラフト2位で、日産自動車からブルーウェーブに入団した。翌99年シーズンでは即戦力として、開幕当初からローテーションの一角を担った。シーズン終盤には一時オリンピック予選の助っ人として西武・松坂投手らとともに派遣され、チームを離れた時期もあったが、結局チーム最多タイとなる11勝を挙げ、防御率もパリーグ4位という好成績をあげた。大変スタミナがある投手で、完投数が非常に多い。ただ、持病として腰痛を抱えているのが心配の種である。
 また、ブルーウェーブの公式記録には身長が174cmと記載されているが、ゲスト出演したフジテレビの「プロ野球ニュース」の中で身長のことを聞かれたときには、「173cmです。本当に。」と答えていた。真実は横に並んだことのある人しか分からない。


22 小林 宏


'96〜'04の成績
年度試合数勝利敗北セーブ防御率
041710011.25
03194805.54
02153104.35
010000-
00195906.75
9963204.55
983110943.59
975373152.56
96378704.08

 ブルーウェーブの守護神として97年序盤まで活躍していたが、先発陣の不調のため急遽先発にまわることになった。本人は以前から先発を希望していたので念願がかなった形となった。95年の日本シリーズでのヤクルト・オマリーとの激しい戦いで一躍有名になったが、今ではその時のことをふれられるのはあまり気分が良くないらしい。強心臓を持ち、ストレート主体のピッチングでガンガン攻めていく。きっちり低めにコントロールされる直球と、切れのいいスライダーが彼の持ち味。
 98年シーズンは先発投手として10勝を挙げ、99年、00年と2年連続で開幕投手を務めた。両年とも開幕からしばらくは先発ローテーションの一角を担ったが、99年途中に肩の違和感から手術に踏み切った影響があって勝ち星は増えなかった。
 ブルーウェーブ投手陣の中でも特に女性からの人気が高い。今季彼が先発にまわったため、試合中にブルペンで投げる姿を見れなくなったのを残念に思っているファンもたくさんいる。性格は実はとても明るいと思われるが、人がたくさんいる場ではあまり言葉を発しないようで、96年に日本一を決めた日の深夜、関西テレビにブルーウェーブの選手がほとんど全員出演している中では、かなり恥ずかしそうにしていた。


27 小倉 恒


'97〜'04の成績
年度試合数勝利敗北セーブ防御率
04344505.82
035141374.52
02177403.50
012610703.62
004895102.98
994852112.17
98121004.34
97221004.45

 ブルーウェーブが日本一に輝いた96年オフに、スワローズから移籍してきた。移籍当初は敗戦処理投手としてリリーフでの登板が続いたが、次第に首脳陣の信用を得て99年からは抑えのエースとしてフル回転した。アンダースローから繰り出す150キロ近い直球と、切れのある変化球が持ち味。また、長いイニングの登板も可能な万能投手。
 00年も守護神として開幕から投げ続けたが、終盤はテストも兼ねて先発登板にチャレンジした。その結果、00年チームトップの9勝をマークし、さらに01年は自身初の2桁勝利を得た。
 03年はブルーウェーブ投手陣が総崩れの中、チーム最多の51試合に登板し、且つ先発・中継ぎ・抑えとしてフル回転した。


28 星野 伸之 (99年オフ 阪神移籍)


BW在籍最終4年間の成績
年度試合数勝利敗北セーブ防御率
992611703.85
982261005.12
9729141003.24
962213503.05

 99年オフにFAで阪神に移籍した、名実ともに1980、90年代のブルーウェーブのエース。97年まで11年連続の二ケタ勝利をマークした大投手。細身の体からは想像もつかないスタミナを持ち、けがもほとんどしない。100km前後のスローカーブと120km台後半のストレートの緩急で打者をきりきり舞いさせる。選手の間では、カーブのあとのストレートが150kmものの速さに感じられるので、剛速球投手として恐れられている。また、100イニングを投げてわずか四死球がわずか20数個ということから、コントロールの良さも確認することができる。
 98年はチームの不振もあって二桁勝利は達成できなかったが、99年に見事復活した。ピッチングだけでなくインタビューでもひょうひょうと答える。野球選手らしくないといえばらしくないが、ブレーブス&ブルーウェーブで通算168勝をあげた。ブルーウェーブで200勝達成とはならなかったのが心残り。


33 平井 正史 (02年オフ 中日移籍)


BW在籍最終7年間の成績
年度試合数勝利敗北セーブ防御率
0250009.00
0160008.38
0050107.36
9950108.40
98366312.48
97172103.98
96345362.50

 愛媛県の宇和島東高のエースとして甲子園で大活躍し、94年のドラフト1位でブルーウェーブに入団した。翌年の95年のシーズンでは、不動の守護神として53試合に登板し、15勝5敗27セーブという素晴らしい成績をおさめブルーウェーブの優勝に大きく貢献した。新人王だけでなく最優秀救援投手や勝率第一位投手のタイトルも取り、彼にとって最高のシーズンだったと言える。
 97年のシーズンで先発に転向したが、彼自身や首脳陣が期待した結果は残せず、その後は本人が志願してストッパーを目指し、97年秋にはアリゾナで行われた教育リーグも経験したが、なかなか本来のピッチングを取り戻すことができず、入団時の投手コーチであった山田久志氏が監督を務める中日ドラゴンズへ02年オフに移籍。恩師のもとで見事に復活し、03年は12勝(6敗)を挙げ中日投手陣最高の勝ち星を得た。


43 鈴木 平 (99年オフ 中日移籍)


BW在籍最終4年間の成績
年度試合数勝利敗北セーブ防御率
99425433.98
98455052.10
97423563.83
965572192.43

 日本一に輝いた96年のシーズンでは、チーム最多の55試合に登板し、最高の防御率とセーブポイントを記録した。さらに日本シリーズでは、日本一を決めた第5戦で胴上げ投手となり優秀選手賞を獲得、ヤクルトから移籍してから最高のシーズンだったといえる。97年のシーズンはストッパーを小林投手にゆずり、彼は中継ぎ的な役割を果たすことが多かったが、シーズン後半に肩を痛めるまで十分に実力を発揮した。しかし、負け数が勝ち数を上回ったり、防御率が今ひとつだったのが残念であった。サイドからの140km/hを越えるストレート、大きく割れるカーブ、さらに鋭角的な切れ味を持つシュートを187cmの長身から投げおろす。
 ブルーウェーブの看板選手となったが、99年シーズン終盤に制球難に陥り、オフにトレードで中日に移籍した。

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