野手部門

6 田口 壮
8 藤井 康雄
10 谷 佳知
23 小川 博文
24 D.J
31 塩崎 真
47 日高 剛
51 イチロー
52 大島 公一


1軍公式戦出場選手の04年の推定年棒はこちら

6 田口 壮 (01年オフ カージナルス移籍)


BW在籍最終6年間の成績
年度試合数打率本塁打打点
01134.280842
00129.279849
99133.269956
98132.272941
97135.2941056
96128.279744

 関西学院大学からドラフト1位でオリックスに入団し、95〜98年、00年にパ・リーグのゴールデングラブ賞を獲得した。96年のオールスター明けから打順が1番に定着し、00年からは藤井選手のあとを継いで選手会長に就任した。00年オフにポスティング・システムでシアトル・マリナーズに移籍したイチロー選手と大変仲がよく、試合前のベンチ前でのチャッチボールはいつも2人でしていた。この2人が繰り広げたライト−レフト間の遠投は、今も記憶に焼きついている。
 走攻守そろった超一流選手で、足が速く肩も大変強い12球団一のレフトである。ランナー2塁でレフト前ヒットを打たれても、彼のものすごいバックホームの返球があるため点が入ることはない。ホームランボールでさえフェンスにのぼって取ってしまうなど、守備のチームであるブルーウェーブを支えている。
 97年からはブルーウェーブのチーム事情で、外野と内野を兼任していたが、もともと送球難で外野手に転向した経緯があるため、内野の守備には不安がある。本人もそのことで悩み打撃にも影響が出たため、2000年のシーズンからは再び外野に専念することになった。また、ブルーウェーブの攻撃中、彼が出塁できずベンチに座っていたときはいつも、イチロー選手にピッチャーの印象を話していたらしい。
 愛車はベンツで、彼が勧めるドライブコースは六甲アイランド方面の阪神高速湾岸線とのこと。残念ながら離婚してしまったが、前の奥様とよくドライブに行ったらしい。また、若手の選手をつれて三宮のセンター街にあるカツ丼屋によく現れていたそうだ。
 また彼は、得点と安打数を基準に1万円ずつ積み立てシーズンオフにその合計額を出身地である西宮市の少年野球チームに寄付するという「西宮っ子基金」を97年に実現させた。人間的な温かさが感じられる一面である。
 2001年オフにFA権を取得し、憧れのメジャーリーグへの移籍を決断した。


8 藤井 康雄 (02年オフ 引退)


BW在籍最終7年間の成績
年度試合数打率本塁打打点
0253.16516
0188.1961545
00112.2291854
99115.2451551
98126.2503080
9798.2401857
96109.2742061

 わが町の誇り。阪急ブレーブス時代からチームを支えたひとり。97年のオフにFAを宣言して他チームに移籍するという噂だったが、ブルーウェーブのペナント奪回のために残留を決めてくれた。ゲームの勝負どころでの活躍が印象的であり、相手投手が制球難で苦しんでいるときにきちんと四球を選ぶところなど、ベテランらしさも存分に見せてくれた。世界の王に次ぐ満塁ホームラン14本は見事としか言いようがない。
 彼を応援しているファンも大変多く、代打で彼の名前がコールされると大歓声が起こる。逆に彼のところで代打が告げられるとブーイングが起こる。また、「やっすおさーん!」という掛け声がGSライトスタンドでの定番になっている。彼の応援歌の中の「そーれそれそれ、藤井!」というところが個人的に大好きであった。
 96年のシーズンまで藤井選手と、現在大リーグのAngelsに在籍している長谷川磁利投手の家は、通称「ドブ川」をはさんで徒歩約1分の距離にあったが、シーズンオフに長谷川投手が移籍したときに藤井選手も長谷川投手が住んでいた家に引っ越した。当初は入口やガレージの門が開けっ放しになっていたりしていたが、しばらくたってSECOMの門に換えたようだ。
 98年のシーズンでは36歳にして30本塁打、80打点でチームの2冠王に輝いた。惜しまれながら02年に現役引退を決意し、10月13日の試合後(当日の試合では4番でフル出場、2安打を記録)に行われた引退セレモニーでは、家族全員が見守る中、大観衆の拍手喝采に包まれた。ベンチ前でご長男が涙を必死にこらえていた姿が観衆の涙をさそった。


10 谷 佳知


'97〜'04の成績
年度試合数打率本塁打打点
0496.3171563
03137.3502192
02138.326539
01136.3251379
00134.284973
99134.2911162
98132.2841045
97101.272133

 尽誠学園高、大阪商大、三菱自動車岡崎を経て96年のドラフトで2位指名された。社会人時代は全日本で3番打者をつとめ、アトランタ五輪の日本チーム銀メダル獲得に大きく貢献した。入団発表の際には、「ブライアント(元近鉄)のような、三振かホームランかのようなバッターになりたい。」と発言していた。
 また、「将来は三菱自動車のCMに出てイチローと対抗できるようになりたい。」と言ってみたり、外野スタンドではなくバックスクリーンにボールを投げ込んだりと、ユーモアがあるところも見せてくれる。イチローと田口の両スターに挟まれたセンターというポジションで、スタンドの女性ファンに声をかけられると照れながら振り向いてくれることもあった。
 以前サヨナラホームランを打った時、自分の打った球種を覚えていないまま試合後のヒーローインタビューを受けたことがあった。その際、ベンチ裏で確認を取った藤井広報と目で合図しあっていたところ、インタビュアーの長い質問を聞き逃してしまったらしい(結局その日は、球種についての質問はなかった)。
 ネクストバッターボックスにいる時、よく内野指定A席の方を見る。谷選手といえば「チャーリー」がおなじみだが、BWベンチ内では「たに!」とか「よしとも!」と呼ばれている。その才能は99年シーズンに開花し、チーム最多安打、最多盗塁、そしてパリーグのベストナインに輝いた。
 01年には自身初の3割をマークし、更に進化した02年には盗塁王を獲得しただけでなく、年間2塁打数のプロ野球記録を更新。完全にチームの顔となった03年にはパリーグ最多安打を記録し、右打者ながら打率.350(リーグ2位)という目覚しい大活躍を見せた。
 本業の野球だけでなく、プライベートでは柔道・田村亮子選手との愛を育み、03年12月にパリで挙式、東京で盛大な披露宴を行い、その様子は全国ネットで放映された。谷選手の背番号10に合わせて亮子夫人のウエディングドレスのベールの長さが10mであったことは有名な逸話である。


23 小川 博文 (00年オフ 横浜移籍)


BW在籍最終5年間の成績
年度試合数打率本塁打打点
00101.261545
99112.274637
98102.238727
97120.2341138
96110.288938

 00年オフに、3‐3のトレードで横浜に移籍した。
 ブルーウェーブの中で貴重な右のスラッガーであり、'99シーズン中に通算1000試合出場を果たした。阪急からオリックスにかわった年のドラフトで入団し、毎年100試合以上出場した。守備ではショートで華麗なグラブさばきを披露し、一方打撃においてはストレートにめっぽう強く、ボール球であってもスタンドまで運ぶパンチ力を持っている。2ケタのホームランを記録したのが98年に初めてということが不思議でしかたがない。相手投手が一流であればあるほど勝負強さを見せつける。
 30歳を超える年齢からくる魅力のせいか、女性ファンが大変多い。しかしながら、98年1月17日に同じ年の美穂さんと神戸で挙式をあげた。97、98年のシーズンは目立った活躍がなく、本人も不本意だったと思うが、99年はシーズンを通してショートのレギュラーとして活躍した。ただ、凡打で帰ってきたときは首をかしげているか、口をとがらせていた。
 1999年オフに突如報道されたイチロー選手の結婚を知らなかったことで、「俺以外は皆知ってたんじゃないの?」と不安がっていたらしい(しかし本当にチームメイトは知らなかった模様)。
 さらに詳しいことは「小川熱援会」のみなさんが情報をお持ちであり、新天地でのさらなる活躍が期待される。


24 D.J (97年オフ 退団)


BW在籍最終年の成績
試合数打率本塁打打点
9.24013

 96年のリーグ優勝を決めた試合で、9回裏二死から起死回生の同点アーチを放ったことが象徴するように、ここ一番での勝負強さが売り。ブルーウェーブファンの記憶に残り続けている外国人選手のひとり。日本での通算打率は決して高くないが、安打数と打点がほとんど変わらないことから、得点圏打率が非常に高かった。マウンド側から見た彼の構えは、まるで剣士のようでかっこよかった。でもバックネット裏から見ると、かなりガニ股。
 97年シーズンの開幕後しばらくまで1軍でプレーしていたが、新外国人の加入と左ひざのけがのため、残念ながら'97オフにブルーウェーブを退団することになった。アメリカに帰国後はフロリダでひざの手術を受け、また関西に戻ってきたいということであった。アメリカ人らしくファンサービス旺盛で、サインの要望にも快く答えてくれる。グリーンスタジアム神戸のサブ球場に、ハイアットくんという小さな息子さんを連れてくることもあった。愛車はなにわナンバーのインテグラだった。試合が終わると同僚のボニチを助手席に乗せて帰っていく光景が思い出される。


31 塩崎 真


'97〜'04の成績
年度試合数打率本塁打打点
0482.341839
0356.22418
02113.203220
01132.262445
00130.262135
99104.249024
9860.23519
97104.24306

 熊本工高で甲子園出場の経験があり、卒業後に野球推薦で大学に入学した。しかしその大学野球部を3ヶ月で退部すなわち大学も中退し、地元熊本に帰った。半年のブランクののち新日鉄広畑に入社し、96年のドラフト3位でブルーウェーブに入団した。
 プロ1年目となる97年のシーズンはキャンプ、オープン戦を通してずっと1軍をキープし、開幕戦も1軍のベンチに座った。そして4月9日の西武戦で9回に代走としてプロ初出場を果たし、いきなりノーサインで盗塁を決めるというとんでもない強心臓の持ち主。
 ブルーウェーブの最大の課題である三遊間を兼任していたが、99年シーズンの後半には打撃力がアップし、ショートのレギュラーまで手の届くところまで一気に成長した。2000年は開幕からスタメン出場し、特に西武・松坂とは相性がよく、彼が先発する試合では必ずトップバッターとして起用された。
 01年もレギュラーとしてほぼ全試合出場したが、02年以降は高めに広がったストライクゾーンに苦しみ、また怪我も重なって不本意なシーズンが続いている。


47 日高 剛


'98〜'04の成績
年度試合数打率本塁打打点
04114.274538
03118.267937
02124.1931236
01129.247837
00101.203634
9996.184331
9878.228214

 20歳を超えたばかりの若さで、ブルーウェーブ投手陣の正女房役に抜擢された。1軍で活躍し始める前から打撃には定評があったが、99年にリードと肩も認めれるようになってから逆に打撃力が低下してしまった。
 佐竹と仲が良く、二人して田口のことを「キャップ」と呼んで親しんでいた。新井氏が打撃コーチを務めていた頃は、ネクストバッターボックスにいる時にたいてい指導を受けていた。ファンからは「たけちゃん」の愛称で親しまれているが、BWベンチ内では「ひだか!」と呼ばれているようだ。
 99年オフにはファンからも「美人」と評判の高い元モデルと入籍し、翌2000年にはオールスターにも選出された。打率の割には打点が多く、チャンスでの勝負強さが売り。和製長距離砲が少ないブルーウェーブの中では、本塁打も多い方である。


51 イチロー (00年オフ マリナーズ移籍)


BW在籍最終5年間の成績
年度試合数打率本塁打打点
00105.3871273
99103.3432168
98135.3581371
97135.3451791
96130.3561684

 あらためて言うまでもない、20世紀の日本プロ野球を代表する超スーパースター。自身の夢を叶えるため、日本人初の大リーガー野手としてシアトル・マリナーズに移籍した。野球のルールさえよく分からなくても、彼のことは知っているという人も多い。
 オリックスの選手の中で96年全試合に出場したのは実は彼だけであった。96年のオールスター明けから打順が3番に固定された。グリーンスタジアム神戸では、9回の守りのときに外野陣でキャッチボールしたボールを、ライトスタンドに投げ込むことが恒例になっていた。97年のシーズンは一時期2番に座ったことがあったが、その他はずっと3番に定着し、見事に単独では史上初の4年連続首位打者と年間最多安打を獲得した。しかしこれは彼にとっては通過点でしかないと本人は言っており、現実に日本での最後のシーズンとなった2000年まで7年連続首位打者という輝かしい実績を持つ。また、216打席連続無三振という他の選手にはとうてい真似できないとんでもない記録も打ち立てた。そして、このあと三振したことが新聞で大きく取り上げられたことは、本人もとても喜んでいた。
 また彼は何人かで焼き肉を食べに行くときは、自分のテーブルを仕切るらしい。肉をすべて自分で焼いて、誰かが食べもしないのに鉄板上にたくさん肉をのせると怒るそうだ。
 イチローといえば打席に入って屈伸、そしてピッチャーの方を向いてバットを立てるという動作が有名だが、ネクストバッターボックスでの一連の動作も、ほとんど狂いを生じない。以前、ボールボーイが重りを出し忘れていたら、一連の動作に狂いが生じてしまった。そしてそのあとの打席は結局凡打に終わってしまった。
 また、ブルーウェーブを優勝に導いた頃から大リーグ挑戦への夢が膨らみ、マスコミも含めて話題を呼ぶ中、99年春には初めてマリナーズのキャンプに参加した。99年オフには大リーグ移籍確実とまで言われたが、シーズン終盤死球で手首骨折し、94年から続けていた連続試合出場も途絶えてしまった。しかし、この99年の春先のある試合で彼が長い間探し続けていたバッティングの”こつ”をつかみ、ゆるぎない自信を持った。今後もイチロー選手抜きにして、オリックス・ブルーウェーブというチームを語ることはできない。


52 大島 公一


'96〜'04の成績
年度試合数打率本塁打打点
0467.263010
03109.284020
02116.230125
01122.263131
00119.283133
99110.280133
98129.276850
97127.239127
96125.254437

 96年の巨人との日本シリーズでの活躍で一気に知名度が上がった選手。95年のシーズンオフに近鉄から移籍してきた。当時は背番号51のイチローが1番バッターだったので、51,52の1,2番コンビの活躍が仰木監督を喜ばせた。当時、守備は主にセカンドで、チェンジのときに誰よりも早く守備位置まで駆けていった。グラウンド整備された回の守備につくときは、土のところを踏まないように芝の部分を走っていく。ブルーウェーブの中で自ら脇役に徹しようとしており、2番打者として仕事を確実にこなす。ライトスタンドからの応援も、「仕事をこなせ!おーしま!」という時もたまにある。田口、大島のどちらかが出塁して、クリーンナップが返すというのがブルーウェーブの典型的な得点パターンであった。97年には日本ハムの金子選手を1票差で上回って、2年連続ゴールデングラブ賞を獲得し、さらに99、00年にも2年連続で受賞した。
 近鉄から移籍してきたということで、今もなお大阪の四条畷に住んでいるらしい。97年10月末には双子の赤ちゃんが誕生し、2児のパパとなった。
 グリーンスタジアム神戸ではすっかり名物と化していたが、彼の打席がまわってくると、「大島」のプラカードを持った通称「走る大島ファン」が内野スタンドを掛けまわっていた。プロ野球界全体でも好感度ナンバーワンかもしれない。
 02年は高めに広がったストライクゾーンに苦しみ打率が降下してしまったが、翌年すぐに克服し、若手の多い内野陣を引っ張っている。

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