ジョージ・シスラー 〜偉大なる一塁手の半生〜
以下の内容は、レオナパパさんの翻訳によるものです。
http://www.ballparkguys.com/Who_you_Ask/George_Sisler.htm
全盛期における野球選手としての能力を合理的に考察するならば、今までで最も偉大な一塁手と言える選手は、(ルー)ゲーリッグ以外では、恐らく彼(ジョージ・シスラー)しかいません。
何故なら、他のトップクラスの実績を残す選手達、真っ先に挙がるのが(ジミー)フォックスや(ウィリー)マッキャビーですが、彼らはゲーリッグと同じタイプの選手ですので、直接優劣をゲーリックと比較でき、その結果、彼らの劣位が明白になります。しかし、私が言及しているその人は、ゲーリックとは異なるタイプの選手でした。彼はホームランをぽんぽん打つことはありませんでしたが、ゲーリックよりも、より高い打率でヒットを放ち、より俊足で、より高い守備力を有する選手でした。従って両者を比較しても容易にその優劣をつけることができないのです。
− ビル・ジェームズ著 The Historical Baseball Abstract より −


ジョージ・シスラー 〜偉大なる一塁手の半生(第1部)〜

ジョージ・シスラーが17歳で最初の契約書に署名した当時、彼はオハイオ州アクロン中央高校の花形ピッチャーでした。その契約は、オハイオ−ペンシルバニア・リーグの1クラブであり、コロンバスのファームチームでもあったアクロンに帰属する内容のものでした。その後、アクロンはコロンバスにシスラーの保有権を売却し、さらにコロンバスは同様に、このサウスポーの保有権をピッツバーグ・パイレーツに転売しました。

パイレーツは、シスラーに高校卒業後、チームに入団することを要求しました。しかし、シスラーは、後に伝説のブランチ・リッキーのもとでプレーすることになるミシガン大学へ進学することを予定していました。ピッツバーグは、現コミッショナーの前身である全米委員会に訴えましたが、委員会はシスラーの契約が無効であると裁決を下し、この若いピッチャーが自由行為者(フリーエージェント)である事を宣言しました。何故なら、17歳である彼は、法律上、若年であるため両親の同意のない契約を交わすことができなかったからでした。
この未来の一塁手は大学の野球チームで3シーズンの成功を収めた後、既に監督としてリッキーを迎えていたセントルイス・ブラウンズと契約し、1915年6月に入団しました。

シスラーの初登板はシカゴでのホワイトソックス戦でした。彼はわずか1本のヒットしか許さず、3イニングを無失点の投球内容で、自らのメージャーリーグ・デビューを飾りました。しかし、明らかにリッキーは彼に対して別のプランを持っていました。リッキーは、初登板翌日の練習で、”ゴージャス・ジョージ”にファーストミットを手渡して、一塁手の手ほどきをしたのでした。マウンドでの早期の成功にもかかわらず、シスラーは、時々マウンドで試合開始を迎える機会を得ながらも、いつの間にか一塁と外野の間を慌しく往復していました。
結局、1915年のシーズンにおいて、シスラーは一塁で37試合、外野で29試合プレーし、ピッチャーズマウンドに上ったのは、わずか15試合でした。彼のピッチング経歴は、軌道に乗り始める機会を得る前に、事実上、終わりを告げたのでした。

1916年、シスラーは3試合で先発し、27イニングでたった3失点しか許さず、防御率は1.00でした。しかし、彼の最大の成果はバッターボックスでもたらされ、34盗塁と共に打率.305の打撃成績を残したのでした。また、守備でも1試合当りの守備機会数でリーグトップの数字を記録しました。

1917年〜1919年には、ブラウンズのファーストが、卓越した守備力を維持しながら、打者として成長していく様を見ることができました。1917年、彼の残した打率.353は、球聖タイ・カッブに次いでアメリカンリーグ第2位という素晴らしいものでした。この年、カッブはシスラーを30ポイント引き離して、10度目の首位打者タイトルを獲得しています。さらに、シスラーは、539打数で僅か19三振しかせず、この間に自らの球歴に30二塁打、9三塁打、37盗塁を加えたのでした。守備では、97回のダブルプレーを記録し、ニューヨークのウォーリー・ピップと並んでリーグ表彰を受けました。

1918年、シスラーの打率は.341に留まり、カッブおよびフィラデルフィアのジョージ・バーンスの後塵を拝して、バットマンレースで第3位に終わりました。しかしながら、45盗塁を記録し、クリーブランドのブロッゴ・ロスに10盗塁の差をつけて、初めて盗塁王のタイトルを勝ち取ったのでした。守備では、ボストンのスタッフィ・マッキニスがその年のアメリカンリーグトップの一塁手でしたが、シスラーも、マッキニスとの差が然程ない成績を収め、キャリア最小エラー数13を樹立しました。

この時点まで、ブラウンズのスタープレーヤーとなっていたシスラーは、あまりパワーを発揮していませんでした。これは、多くのルール変更が効果を現わし、恐らくより飛ぶボールが新しく導入された1920年以前には珍しいことではありませんでした。しかしながら、シスラーは彼がパワー部門で何ができるのか体現することを1920年まで待ちはしませんでした。
1919年、彼はそれぞれキャリアハイとなる31二塁打と15三塁打を打ちまくり、10本塁打をかっ飛ばしたのでした。さらに、1917年の自己ベスト打率.353にわずか1ポイント届かない打率を残す間に、得点(96)、打点(83)及び強打率(.530)でのキャリアベストを記録しました。バットマンレースはデトロイト・タイガースのタイ・カッブが自身12度目でかつ最後となる首位打者の栄冠を勝ち取りました。シスラーの打率.352を.355と僅かに上回ったボビー・ビーチが第2位となって、再び、シスラーは第3位に終わったのでした。
守備では、捕殺数でアメリカンリーグのすべての一塁手を上回りました。シスラーの巧みで素早いプレーから生み出される、この一塁手シーズン最多捕殺数は生涯に7度達成されることになります。


ジョージ・シスラー 〜偉大なる一塁手の半生(第2部)〜

1920年、シスラーは遂にカッブを押し退け、メジャー最優秀打者として、野球界の頂点に立つことになります。シスラーはシーズン通算打率.407で初めて首位打者の栄冠を勝ち取ったのでした。彼が1920年のシーズンに記録した成績は、単一シーズン成績として野球史上でも最も素晴らしいものの1つとなりました。彼は全154試合のすべてのイニングでプレーし、リーグ最多となる631もの打数を記録する中で、今なお残る空前絶後の大記録、シーズン通算最多安打257安打を放ったのでした。また、彼の全キャリアで最高となる49二塁打・18三塁打・19本塁打を叩き出すと共に、137得点・122打点・46四球および長打率.632のキャリアレコードをマークしました。
ただ不運にも、ベーブ・ルースが歴史的な54本塁打を達成したシーズンであったため、これが非常に多くの注目を集める一方で、シスラーの打率.407の印象を薄くする結果となりました。これらこの年の快挙の背景には、打者の名声をより強調することを目的とした、スピットボール(球につばをつけてカーブさせる球)を禁止する1919年の冬のルール改正やボール交換によって試合中のボール品質を維持する新しい慣習の導入がありました。ルース及び他の何人かの選手と同様に、シスラーもその恩恵を受けることになったのでした。
さらにシスラーは名人級の守備を披露し、すべての一塁手の成績を上回る140捕殺を記録しました。この数字はその時点で史上第4位となる一塁手シーズン最多捕殺記録でした。名手”プリンス”ハル・チェイスが引退したことも重なって、この偉業によりシスラーは、現役最高の名一塁手と称えられたのでした。

1921年、相変わらず流麗なフィールディングを披露するシスラーでしたが、首位打者タイトルはデトロイトのハリー・へイルマンに譲ることになりました。シスラーは.371の高打率にもかかわらず、へイルマン、カッブおよびルースに次いで第4位に終わったのでした。それでも、シスラーは2年連続でシーズン通算200安打を上回り、35盗塁で2度目の盗塁王タイトルを勝ち取り、2年連続して100以上の得点と打点を叩き出したのです。また、守備でもシーズン通算でたった10個のエラーしか犯さず、守備率.993のキャリアベストを樹立しました。しかし、ボストンのスタッフィ・マッキニスは、恐らく歴史上のどの一塁手よりも最も素晴らしいシーズンを過ごしていたのです。彼はシーズンを通してたった1つだけしかエラーを犯さず、守備率.999という空前の大記録を作ったのでした。

1922年、シスラーは1920年シーズンよりさらに好調だったかもしれないシーズンを過ごして、再び首位打者に返り咲きました。彼は、3年連続シーズン通算200安打以上となるリーグ最多の246安打を放ち、また、586打数でたった14回しか三振せずに、18三塁打、134得点、51盗塁を記録しました。そして驚異の高打率.420を残したシスラーは、首位打者争いでカッブが.401の高打率をマークしたにもかかわらず、カッブに打ち勝ったのでした。
歴史上、4割以上の高打率を残しながら、首位打者の栄冠を勝ち取れなかったことは、この年以外にたった1度だけ、−1911年、”シューレス・ジョー”ジャクソンの打率.408をカッブの打率.420が上回ったことしかありませんでした。この時、タイガースの偉大な打者はシーズンを早めに終えていました。アメリカンリーグ史上、この1922年のシスラーの打率.420と同等もしくはそれ以上であったのは、1901年のナップ・ラジョワの打率.422と1911年のカッブの打率.420しかありません(実際にはシスラーの打率は.41979でカッブの打率.41962よりも高かったのです)。また、カッブとナショナルリーグの偉大な打者ロジャーズ・ホーンズビー、そしてシスラーだけが、打率4割以上を二度以上達成できたのでした。
そのシーズンの中で、シスラーはひどい肩の怪我に苦しんだにもかかわらず、アメリカンリーグ記録となる41試合連続安打を樹立しました。この記録は、1941年にジョー・ディマジオが打ち破るまで、リーグ記録として成立し続けるものでした。あたかもこれだけでは十分でないかのように、さらにブラウンズの一塁手は125捕殺を挙げて、自身3回目となる一塁手シーズン最多捕殺数を記録したのでした。

1922年は、シスラーが1915年に入団して以来初めて、ブラウンズがペナント争いを演じたシーズンでもありました。結局、セントルイスは、93勝61敗の成績を収めたヤンキースにたった1ゲーム差の第2位で終わってしまいました。外野手ケン・ウィリアムズはリーグ最多の155打点を挙げると共に、39本塁打を放ってアメリカンリーグを制し、ベーブ・ルースから本塁打王タイトルを奪い取りました。ルースはトラブルを起して、'22年シーズンの最初の1ヶ月を出場停止のために失っていたのでした。ブラウンズの二塁手マーティー・マクマナスが打率.312と109打点を削り出し、外野手ベイビー・ドール・ジェイコブセンが打率.317と102打点をチームに寄付したのですが、ブラウンズは4人の100打点打者を有する球団史上最強のチームを作り上げたにもかかわらず、初のペナントを勝ち取るには完全には十分ではなかったのでした。

まさに絶頂を極めようとしていたシスラーとブラウンズは、1つの長いシーズンの間、突然、急停止することになりました。1923年、シスラーは激しい副鼻腔炎を患い、これが視神経にまで感染して、物が二重に見えるという深刻な病状となり、全シーズンを欠場せざるを得ませんでした。スター打者を欠いたブラウンズは、シーズン終了時74勝78敗でリーグ5位に低迷しました。残りの球歴において打率3割を下回ったのは、たった一度だけだったと言えども、シスラーは彼が病気の前に元あったのと決して同じ打者ではあり得ませんでした。

1924年、単に並外れた一塁手と打者の復帰というだけではなく、監督をも努めることが、ジョージ・シスラーの再起を際立たさせました。彼はチームを運営する追加責任と引き換えに25,000ドルの契約を受諾したのでした。しかし、彼は1916年以来最低の打率.305しか打てず、アメリカンリーグで第29位に終わりました。これは毎年トップ5に名を連ねることに慣れていたファンには信じ難いことでした。そしてまた、シスラーは自分のパワーとスピードを示す数字が低下する様をじっと見つめ、自分の成績が滑り落ちて、得点と打点が4年ぶりに初めて100を下回る様を見ることになりました。チームは2年続けて74勝78敗の記録をかき集めるに留まりましたが、1位のセネターズから17ゲーム差の4位へ1つ順位を上げることになりました。守備におけるシスラーのパフォーマンスも同様に滑り落ち始めました。キャリア4回目の一塁手シーズン通算最多捕殺数をどうにか記録しましたが、リーグ最多の23エラーを犯すことになりました。

シスラーの打撃成績での復活は、1925年シーズンに大きな希望をもたらすものでした。この年、前年に引き続きベテラン一塁手の舵取りで、ブラウンズは82勝71敗の成績を収めてリーグ第3位に躍進したのでした。シスラーは34試合連続安打でシーズンをスタートすると、打撃への信頼度を取り戻して、通算打率.345でフィラデルフィアのサミー・ヘールと並んで10位タイとなりました。さらに、全キャリア中2番目に多い12本塁打を積み上げると共に、4回目の100得点以上を記録し、4回目の100打点以上となる105打点を叩き出しました。しかしながら、彼のスピードは急激に衰退し続けたままで、1915年ルーキー・シーズン以来最低のたった11盗塁しか記録出来ませんでした。にもかかわらず、彼はやっとの思いで15三塁打を走り抜いたのでした。守備では、自身5回目のシーズン最多捕殺数を成し遂げたにもかかわらず苦しみ続け、彼は全キャリア中で2番目に多い26エラーを犯したのでした。

1926年は恐らくシスラーの球歴の中で最悪の年でした。彼の打率は、1915年ルーキー・イヤー以来で2回目となる3割以下に滑り落ちました。彼は打率.290とわずかな長打率.398しか残せず、ブラウンズは62勝92敗の惨めな成績で、ペナントを勝ち取ったヤンキースに29ゲームの大差をつけられて、リーグ第7位で終わりました。シスラーはシーズン終了後に監督を解任されました。彼の守備率は回復しつつありましたが、まだシスラーらしいと言うには程遠い.987でした。それでも、リーグ最多となる141個のダブルプレーを成立させたのでした。


ジョージ・シスラー 〜偉大なる一塁手の半生(第3部)〜

1927年は、ブラウンズのユニフォーム姿のシスラーに歓声が上がる最後の年となりました。彼は打率.327を残し、自身5回目のシーズン通算200安打を記録し、病気以来初めて30二塁打をかっ飛ばしたのでした。何よりファンを驚かせたのは、34歳にして27盗塁を決め、ヤンキースの外野手ボブ・ミューゼルの24盗塁を僅かにかわして、自身4回目となる盗塁王の栄冠を獲得したことでした。守備では、リーグ最多の24エラーを犯しましたが、131捕殺および138個のダブルプレーでアメリカンリーグを制したのでした。
しかしながら、その冬、セントルイスはデトロイトとのトレードで、外野手ハリー・ライス、投手エラム・ヴァンギルダーおよび遊撃手チック・ギャロウェーと引き換えに、外野手ヘイニー・マヌッシュとそしてシスラーの後継一塁手にル・ブリューを獲得したのでした。もはやシスラーを必要としなくなったブラウンズは、この将来の殿堂入りプレーヤーを何のセレモニーもなく25,000ドルでワシントンへトレードしました。次いでワシントンは、1928年シーズン中に20試合プレーしただけで、彼を7,500ドルでボストン・ブレーブスへトレードしました。

この一連のトレードでシスラーは元気を取り戻し、セネターズでは打率.245しか打てずにいた彼が、ボストンでは打率.340をマークし、1928年シーズン通算では打率.331で終えることが出来たのでした。

偶然にも、ブレーブス・チームメイトのうちの一人がロジャーズ・ホーンズビーでした。ホーンズビーは、キャリアの最初の12年をナショナルリーグのセントルイス・カーディナルスでプレーした後に、1928年シーズン終了をボストンで迎えていたのでした。この二人の稀代の大選手は、共に1915年にセントルイスの球団に入団し、12年間ミズーリ州の野球ファンの敬慕を共有し、他球団で短期間プレーした後、今チームメイトとなったのでした。シスラーが、自身7回目そして最後となる一塁手シーズン最多捕殺を記録してナショナルリーグを制する一方で、ホーンズビーは最後となる自身7度目の首位打者タイトルを獲得した後、船でシカゴへ旅立ったのでした。N.L.打率トップ5のうち二人の強打者を誇っていたにもかかわらず、ブレーブスは50勝103敗の成績でリーグ第7位でシーズンを終了しました。

1929年、36歳の打者は全154試合でプレーする間に、打率.326を記録し、自身6回目となるシーズン通算200安打以上(205)と1922年以来初の40二塁打叩き出し、何とかブレーブスの体面を保とうと試みました。しかし、彼の努力も空しく、ブレーブスは56勝98敗の成績しか残せず、1位のカブスから43ゲーム差のナショナルリーグ最下位へ転落してしまいました。打席では好成績を継続したもかかわらず、シスラーの守備は悪化し続けました。彼は、キャリア最多となる28個のエラーを犯し、彼のキャリアで6回目となるリーグ最多エラー数を記録したのでした。
1930年にシスラーはメジャーリーグ経歴の幕を下ろすことになりました。最後も彼にふさわしく、116試合で打率.309と3割を上回る成績を残したのでした。

1930年シーズン後、シスラーはマイナーリーグを転々としてから、セントルイスで印刷会社を経営しました。その後、ブルックリンとピッツバーグのスカウトおよび臨時打撃コーチとしてメジャーリーグに戻る前には、スポーツ用品会社も経営していました。

失われた1923年シーズンにより、シスラーの生涯通算安打数は3,000安打に届きませんでした。彼はメジャー歴代39位となる生涯通算2,812安打の記録を残しました。また、彼の生涯通算打率.340は、メジャー歴代15位でルー・ゲーリッグとタイでした。
しかし、これですべての話が終わったわけではありません。
野球歴史家のビル・ジェームズは、シスラーがもし視神経への感染がなければ、生涯通算約3,800安打と生涯通算打率.357を残していたであろうとシミュレーション計算から結論を下したのでした。ジェームズはさらに、これらの計算さえも控えめであって、生涯通算4,000安打と生涯通算打率.362がより妥当ではないかと言ったのでした。カッブだけしかそれらを上回る最高の記録を残せなかったことを考えれば、シスラーは、視神経への感染さえなければ、メジャー歴代の中で最も偉大な打者の一人になっていただろうと合理的に主張することも可能でした。ただそうするまでもなく、シスラーはメジャーリーグの歴史に名を残したのでした。かつてタイ・カッブをして”最も完璧に近い野球選手(the nearest thing to a perfect ballplayer)”と言わしめた程の、最も偉大な打者でもあり、野手でもあり、走者でもあった選手の一人として。
セントルイス・ブラウンズ球団史上最高の大選手は、エディ・コリンズ、ウィリー・キーラーおよび、それに相応しいルー・ゲーリッグと共に、3人を上回る235票を獲得して、1939年に野球殿堂入りを果たしたのでした。

打席およびフィールドで並外れた技量を揮ったにもかかわらず、シスラーは自らの最高の功績はマウンドで達成されたと言い続けていました。それは1915年8月29日、彼がピッチャーとしてワシントン・セネターズと少年時代から憧れの選手だったウォルター・ジョンソンを2対1でねじ伏せた試合のことでした。実際、シスラーの生涯勝利数5勝のうち、2勝がジョンソンに対する完投勝利でした。

彼らの父親と同じくらい成功しなかったとはいえ、彼の息子ディックおよびデイヴはメジャーリーグ経歴を残しました。一方で、ジョージJrは、国際野球連盟の会長職を務めました。ジョージ・シスラーは1973年3月26日、80回目の誕生日の2日後にミズーリ州セントルイスで亡くなりました。

マイク・リンチ、Ballpark Guy
                               ( 完 )