いにしえのヒットメーカー
以下の内容は、T.Tさんの翻訳によるものです。
http://www.retrosheet.org/milestones.htm
257安打
ジョージ・シスラー(ブラウンズ 1920)

1.記録のおさらい
1915年デビュー。左投げ左打ち。一塁手。 通算2812安打。生涯打率.340。首位打者2回(2度とも.400超)。 盗塁王4回。シーズン200安打6度。連続安打41試合。 一塁手としてのリーグ最多捕殺7回。 1924年から3年間監督兼任。通算218勝241敗。 1939年に一塁手として初の野球殿堂入り。

俊足・巧打と華麗な守備から、「ゴージャス・ジョージ」のニックネームで呼ばれた。 静かな人格者であったと伝えられている。257安打は1920年の記録。 同年首位打者を獲得するも、ベーブ・ルースが54本塁打を達成した年でもあり、 彼のキャリアハイレコードに対する印象は薄かったそうです。

2.シスラーからイチローまでの、事のつながりについて
引退後のシスラーは、当時白人だけのものだったメジャーリーグを、黒人、ひいては 有色人種に門戸を開く役割を担っていました。ブルックリンやピッツバーグのスカウトを していたシスラーは、ブランチ・リッキー会長の命で、のちの黒人メジャーリーガー第1号、 ジャッキー・ロビンソンを面接し、ドジャース入団を進言します。 1947年デビューしたロビンソンへは人種差別による汚いヤジ、迫害、嫌がらせが続きますが、 やがて受け入れられ、その年の新人王を獲得します。 (背番号42は現在、メジャー全球団の永久欠番になっています。 ※欠番決定前から付けている選手がいる場合を除きます)

ロビンソンのメジャー入りと同じ頃、日本の野球に目を向けていたのが、 1931年に全米選抜で来日したレフティ・オドール(1929年に254安打を記録)でした。 自分の率いていたマイナーリーグのSFシールズを率いて来日し、戦後の 日米間の野球交流を再開、長年尽力します。今に続く日米野球への流れです。 当時、マイナーリーグ球団にもまったく歯が立たなかった日本プロ野球は、 その後実力をつけ、来日するチーム、選手のレベルも徐々に高くなっていきます。

上記ロビンソンの活躍で人種差別のカベを超えたメジャーリーグは、 以後国際的な選手発掘を活発化させます。当然その目は日本にも向いていたでしょう。 当時の日米野球は、アメリカにとっては日本市場開拓への思惑を含んで いたかもしれませんが、日本の野球選手にとっては、本場メジャーリーガーに 対峙し、自分の実力を確かめることができる希少な場となっていきます。

日米プロ選手間の契約条項も整備され、この日米野球でメジャーリーガーの実力を 肌で感じたイチローがシアトルに入団するのは、更に後の2001年のことになります。 その後の彼の活躍は、ご存知の通りでしょう。

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今回のイチローの記録は、彼が超えていったヒットメーカー達の、野球発展への尽力 の結果という一面もあります。イチローが彼らの記録に並び、超えていくことに、 彼らの努力を実らせ、その恩返しをするとう意味あいを同時に感じました。

254安打
レフティ・オドール (フィリーズ 1929)

1919年ヤンキースでデビュー。左投げ左打ち。投手→左翼手。 通算1140安打。生涯打率.349。首位打者2回。シーズン200安打3度。

「未完の安打製造機」とでも呼ぶべき人。 240安打以上を記録した打者の中で、唯一野球殿堂入りしていない のがオドールです。それは彼の打者としての才能が見出されるのが、 あまりに遅かったことに由来するようです。

1919年オドールは投手としてデビューします。ニックネームの レフティ(左投げ)は、ここに由来するものでしょう。しかし投手としては まったく振るわず、毎年数試合に登板する程度で、昇格・降格を繰り返して いたようです。1922年にボストンに移り、23年には23試合登板がありますが、 中継ぎだったようで、先発にまわしてもらえない控えの立場だったかと(1勝1敗)。 以降1927年、30才までの4年間、彼の出場記録はありません。

キャリアの転機は1928年のジャイアンツ移籍でした。当時の監督 ジョン・マグローのもと外野に転向し、その年.319をマーク。 翌年フィリーズにトレードされ、彼の潜在能力がようやく開花します。 この年254安打で首位打者を獲得、32HR,122打点と大活躍します。32歳の時でした。 その後フィリーズでチャック・クラインと2年間、ブルックリンでは ベーブ・ハーマンとチームを引っ張りますが、既に彼の現役と しての残り時間は少なくなっていました。

1934年に37才で引退。 強打者としての彼の輝きは、1929〜1932の実質四年間でした。

[後の新聞報道より] 1931年に日米野球の全米選抜として来日。戦後に、シールズを率い、途絶えていた 日米野球を復活させる。現在の日米野球の祖としての一面も持っています。 その功績より、日本の野球殿堂に彼の名が刻まれています。


ビル・テリー (ジャイアンツ 1930)

1923年デビュー。左投げ左打ち。一塁手。 通算2193安打。生涯打率.341。首位打者1回、シーズン200安打6回。 監督としては、823勝661敗。

#1930年に254安打を記録した時の打率.401が、 NLにおける最後の4割超だそうです。

とにかく経歴が選手・監督ともNYジャイアンツ一筋。 1930年代のミスタージャイアンツと言うべきでしょうか。 デビューが遅かったのですが、選手としてのピークは 7年目から10年目にやってきます。四年連続200安打を記録していますが、 それが32歳から35歳の時。6度目のシーズン200安打の時は38歳でした。

#何だか、かつての「不惑の大砲」門田がかぶります。

輝かしい打撃タイトルの1位に名を連ねることはあまりなかったのですが、 1932年から既に監督を兼任しており、この年225安打で.350を記録しているのは ある意味脅威的でもあります。更に翌1933年はワールドシリーズを制覇するなど、 監督としての手腕も見せています。 まさしくチームを引っ張る存在であり続けた人と言えるのでは。

監督は1941年まで続けていました。成績がジリ貧になってしまったのは残念ですが。

253安打
アル・シモンズ (アスレチックス 1925)

1924年デビュー。右投げ右打ち。右翼手。 通算2927安打。生涯打率.344。首位打者2回。打点王1回。 シーズン200安打6回(五年連続含む)。デビューから11年連続100打点。

当時成績も今一つだったアスレチックスで、デビューイヤーから活躍。 2年目で早くもブレイクし、この年シーズン253安打を達成、まだ23才の時。 同年24本塁打、129打点の活躍でチームはリーグ2位に躍進。 早々とチームの主砲に収まります。

1927,28年は、チームにタイ・カッブが移籍し、チームはリーグ制覇への 体制を整えます。シモンズにとって皮肉だったのは、カッブとのパワーバランス からか、この2年間30試合ほどを控えに甘んじることになったことです。 更にチームが悲願のリーグ制覇・世界一をつかんだのは、カッブがチームを去った 1929年でした。前年からチームに加わった一塁手ジミー・フォックスと、1932年まで 毎年打撃成績を競い合うかのようでした。

#フォックスの通算成績も、2646安打、生涯打率.325と、シモンズに引けを とりません。両雄並び立つといいますが、名打者たちにとってはいい効果 なのでしょうか。

1933年にシモンズは金銭トレードでホワイトソックスへ移籍し、これまた イマイチだったチームをシーズン勝ち越しに導きますが、それまでの長年の 不休の活躍の反動からか、1935年は不振のシーズンを過ごします。以降はデトロイト、 ワシントン、ボストン等を転々とし、1940年に古巣アスレチックスに戻ってきます。

#記録帖に出てくる5度の移籍は、全て金銭トレードという面白い経歴もありました。

戦時下の1944年まで彼はプレーを続け、最後のゲームは1944年7月1日でした。

250安打
ロジャース・ホーンスビー (カージナルス 1922)

#参考:http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/3312/mlb.html

1915年デビュー。右投げ右打ち。二塁手。 通算2930安打。生涯打率.358。.400超え3度。6年連続を含め首位打者7回。 打点王4回。本塁打王2回。得点王5回。シーズン200安打7度。 1900年以降のメジャーリーグ最高打率保持者(.424) 1922年,1925年NL三冠王。

20世紀最高の右打者と評される。堂々とした振る舞いから、 "The Rajah"(インドの王様)と呼ばれていた人。 デビュー当時は内野のユーティリティ。最初遊撃手のレギュラーに固定しかかりましたが、 1920年以降、おもに二塁を守るようになります。守備はもともとあまり上手くなかったようですが。 二塁定着の頃から猛打に拍車がかかります。1921年には本塁打も量産できるようになり、 今で言う「大型内野手」としてチームの攻撃の柱となります。

#当時のロスターで見ると、カージナルスの打線が彼に依存していたのは 一目瞭然でした。現在なら四球数がこの頃から増えそうな感じですが、年間60程度で、 出色して多いなという感じでもありません。早いカウントから積極的に打ちにいったか。

監督は1925年から兼任で勤めており、1926年にはカージナルスをワールドシリーズ 制覇に導きます。1929年カブスに移籍した年は監督をしていませんが、この年39HR,149打点と 往年の猛打の復活を見せました。

#やはり、いかに大打者でも、監督兼任は成績が伸び悩みます。 ホーンスビーの成績を見て納得でした。

1930年以降は現役の第一線を退いた状態で、次第に監督業に重きを置くようになっていきます。 ただ監督業のほうはあまりうまくいかなかったようで、通算勝率は.463にとどまっています。 最後の出場は1937年7月20日。このときカージナルスはNL最下位でした。

#参考資料によると、やはり「物事を徹底しないと気がすまない人」だったようで、 やはりこれだけのことをやる人は、相応にこだわったところがあったようです。


チャック・クライン (フィリーズ 1930)

#参考:http://www.circlechange.com/doubledayfield/teams/history/phi.htm

1928年デビュー。右投げ左打ち。右翼手。 通算2076安打。生涯打率.320。通算本塁打300。 五年連続200安打&100得点を含め、得点王3回。 本塁打王4回。打点王2回。首位打者1回。盗塁王1回。 1933年NL三冠王。

1920年代、最下位争いの常連だったフィリーズにとって、彼の活躍は 華々しいものだったでしょう。二年目43本の本塁打王のタイトルは、 長い低迷を抜けだすフィリーズの希望だったに違いありません。 1929〜1933の5年間、クラインはチームを牽引し、次々と打撃タイトルを 獲得していきます。250安打も三年目の1930年に記録されたものですが、 その長打力ゆえ、クラインはあくまで「主砲」として期待されていたようです。

#なお1930年の安打数争いが一番ハイレベルだったことは、以前記述したとおりです。

7年目の1934年に、クラインは1:3+金銭という大トレードでカブスへ移籍しますが、 これがキャリアの転換点でした。何故かその年、カブスはこの30歳の絶頂期の三冠王を 115試合にしか出場させていません。NLを制した1935年も119試合でした。

#多少他サイトを見ましたが理由は定かでありません。体調か、契約上の問題なのか、 それとも右翼が狭かったといわれるフィリーズの当時のフランチャイズ(ベイカーボウル)で 育った彼にとって、リグレーフィールドは自分の庭ではなかったのか。

カブスは1935年にワールドシリーズに駒を進めますが、敗退。1936年シーズン中、 彼は再びフィリーズへ復帰しますが、ほぼフル出場はこの36年だけで、それ以降、 再びクラインが1シーズン130試合以上出場することはありませんでした。

#通算記録という目からは、これは大きなダメージです。 年間打数が160〜200近く少なくなってしまいます。

年間40試合ほどを休む彼のキャリアは1940年まで続きます。1944年にクラインは 40歳で引退しますが、最後の4年間は、1934年以降、少しずつ失われた時間を 取り戻そうとしているかのようでした。 最後の四年間の通算記録:80試合出場、114打数13安打、本塁打1本。

248安打
タイ・カッブ (タイガース 1911)

1905年デビュー。右投左打ち。中堅手。 通算4189安打。生涯打率.360。首位打者12回、打点王4回、盗塁王7回、 リーグ最多得点5回、シーズン200安打9回、打率.400超3回。 シーズン100得点以上11回。

#なんかまだありそうですが、こんなとこで(笑)
#レトロシートの記録帖では、1910年の首位打者は、カッブではなく、ラジョイと なっていました。このあたりのいきさつは、下記にありました。八百長発覚と その後の記録訂正があったようですね。
http://www.major.jp/column/column.php?id=2003061302

その並外れた能力ゆえ、「球聖」という言葉をもって今なお語られる名選手。

いまさら言わずもがなですが、70年以上前のカッブの偉大さが今なお 語り継がれる理由の1つは、不滅といわれたシーズン最多盗塁(96個)や 生涯安打数など、以後長く破られなかった記録の数々にあります。 部門別のカッブのシーズンキャリアハイは、以下の通りです。

得点147,安打数248,二塁打47, 三塁打24(二度)、本塁打12, 打点127,敬遠を含む四球118,盗塁96,最高打率.420,最高出塁率.486。 (ほぼ、1910〜1917の間での記録です)

恐らくもう一つ理由があるとすれば、それはプレーに対する剥き出しの闘争心 ではなかったかと。勝つために何でもやる男、として色々と逸話ものこっていましたし。

「球聖」という言葉のもう一つの意味は、野球やらせりゃ超一流だが、一歩球場の 外に出たら…という、周りのやっかみを含めた響きを持っているようです。 例えば1918年の彼の記録については、色々な解釈をめぐらすことができます。 この年タイガースは55勝71敗と不振でしたが、カッブはこの年の守備で、 生涯唯一の三塁の守りに入り、また生涯二度だけ二塁を守ったうちの一度が この年です。リリーバーとして二試合に登板もしています。二塁の守備では 1失策、投手としては自責点2と、決して得意でなかったことを、既に何度も 首位打者となり、名声をとどろかせていたはずのカッブが行った理由とは、 何だったのでしょうか。

1920年以後のアメリカンリーグは、ベーブ・ルースの50本以上の本塁打をもって、 攻撃戦略の大きな転換を迎えていたように思います。試合途中のボール交換が慣例化され、 スピットボール(球につばをつけ変化させる)を禁止するルール改正の、 打者への恩恵は絶大でした。 シスラーが257安打する前年、1919年の最多本塁打数は11でしたし、 カッブ本人が1909年に一度だけ獲得した最多本塁打の本数は、わずかに9でした。 逆に注視すべきは、カッブの248安打が、これらの環境変化の恩恵なしに成し遂げられた 記録だということです。

#このあたりの時代背景は、当サイトの「シスラーの生涯」の内容を 参考にしています。 http://www.bluewave.nu/ichiro51/record/04/sisler.html

安打記録の背景もそうですが、カッブのいたタイガース自体も、ヤンキースのような 長打攻勢のチームへの転換が遅れがちだったように思います。 決して時代の流れがカッブに味方していたとは、思えないのです。

1909年に世界一を逃してから、タイガースはワールドシリーズに駒を進められなく なっていました。カッブ自身が監督兼任だった1921-1926の六年間、勝率5割そこそこ、 ようやく勝ち越す位の成績を繰り返していました。内野手は入れ替わるものの大型化せず、 チーム1の長距離砲は、ずっと前述の右翼手ハリー・ハイルマンでした。 このチーム改革の遅れの要因が何だったかは知る由もありません。監督カッブのポリシー だったのか、それともフロントが保守的だったのか。本人の自伝では、フロントの せいだということですが。

1927年、カッブは22年間一筋だったタイガースを離れ、アスレチックスに 身を置きます。カッブ最後のゲームは、1928年9月11日でした。 アスレチックスは3-5で敗れています。

おまけですが、シスラー同様、カッブも「マウンドに立った監督」でした。 1925年、1試合に登板。1イニングを完璧に抑え、1セーブを上げています。

----- [ため息交じりのあとがき]

#内容については、本当に迷いました。これまでも名選手の歴史で 必ず取り上げられるカッブですから、その偉大な功績の単なる おさらいではダメ、また瑣末な失敗だけをほじくり返すような、 茶化した内容にするわけにもいきませんし。 この連載のもう一つのカベでした。

イチローが「カッブを超えた」という報道がされるでしょうが、 それがイチローの今まさに進んでいる偉業であることとともに、 タイ・カッブの名声をおとしめるものではない報道であることを祈ります。

246安打
ジョージ・シスラー(ブラウンズ 1922)

1915年デビュー。左投げ左打ち。一塁手。 通算2812安打。生涯打率.340。首位打者2回。盗塁王4回。 シーズン200安打6度。シーズン最多安打保持者。

#シスラーの打撃成績は、既に多く取り上げられており、打撃成績などのおさらいは、 イチロー257安打到達の為にとって置きます。 また、シスラーの半生についてのレオナパパさんの訳文も掲載されており、 ここでは、まだ日のあたってなさそうなシスラーの別の一面と、 その周辺事情を中心に、レトロシートの記録帖を読み解きます。 1922年以降が中心です。

http://www.retorsheet.org/boxesetc/Psislg101.htm

1.セントルイス・ブラウンズの1922年シーズン 93勝61敗。惜しくも1ゲーム差でヤンキースにかわされ、AL優勝を逃す。 この年が、シスラー在籍時に優勝する最大のチャンスでした。 ブラウンズは他チームを圧倒するも、ヤンキースとの直接対決で8勝14敗と 大きく負け越したのが響きました。 ブラウンズは以下の二人で、ほぼ打撃タイトルを独占してました。
・シスラー:最多安打246,最多得点134,.420で首位打者,最多三塁打18,最多盗塁51の5冠。
・ケン・ウィリアムス:最多本塁打39、最多打点155の2冠。
(ベーブ・ルースはこの年35本塁打でした)

#ヤンキースとの差は投手力か?と思いましたが、チーム全体の防御率もほぼ互角。 ただブラウンズ投手陣の中に、アーバン・ショッカーなる荒くれ者を発見。 この年24勝、最多奪三振149ながら、最多被安打365、最多被本塁打22、自責点115。 打たれたらカッとなる性格だったんでしょうか? #勿論アーバン・ショッカーとは本名でなく、登録名でしょう。 殆どプロレスのリングネームですもん(笑)

2.監督としてのシスラー(1924〜1926) シスラーは1924から三年間監督を兼任していましたが、監督としての成績は 218勝241敗と振るいませんでした。恐らく、前年から徐々に衰退して いた投手陣を立て直せなかったのが原因でしょう。それまで何とか三点台だった チーム防御率は、シスラー監督時代に4.50台に急降下。自分やウィリアムス、 前述のジャック・トービンらがコツコツ得点しても、投手陣がそれを守れないという 構図だったようです。

3.投手としてのシスラー 全体の投手記録は、5勝6敗3セーブ、防御率2.35となかなかの数字です。 最初投手として入団しすぐ一塁に転向したたようですが、257安打を打った1920年以降も、 数年に1回、ちょこちょこ登板していました。 1920年の投手記録ですが、1回、被安打ゼロ、2三振、1セーブ。 決して余興ではなかったようです(笑)。1926年にも2イニングを投げて1セーブ上げています。

#しかし、監督みずからマウンドに立って、勝ちをもぎとってくるとは(笑) #「ピッチャー交代。オレが投げる」…この時は周囲が面食らったでしょうに。

242安打
イチロー (マリナーズ 2001)

本日(9月22日)めでたく、
・メジャー1の「単打製造機」の座につく。
・1シーズン4度目の5安打でメジャー記録に並ぶ。
・またシスラーとともに、メジャー球史上「シーズン240安打を2度」記録した 二人目の打者となる。

#これ以上私が語ると、皆さんから半殺しです(笑)「いにしえ」でもないし。 詳細は当サイトのIchiro Recordsをご覧いただきたく。

241安打
ベーブ・ハーマン (ドジャース 1930)

1926年デビュー。左投げ左打ち。右翼手。 通算1818安打。生涯打率.324。ただし実働は実質11年。

ベーブ・ルース全盛期にデビューした、「もう一人のベーブ」。 デビュー当時から長打力はチーム1。というか、当時のブルックリンは 先発3本柱が頼りのチームだったみたいで、ロスターを見ても長打はないわ、 打率は低いわでからきしダメ。 ブルックリンにとっては黄金ルーキーだったことでしょう。

1930年が彼のキャリアハイ。241安打、打率.393、130打点と活躍しながら なんと無冠。いかんせんこの年、ビル・テリー254安打で.401、 チャック・クライン250安打と、最多安打のレコードイヤー。 どの部門も必ず上に誰かいる、という状態でした。 彼の打撃成績での唯一の「1番」は、1932年にシンシナチ移籍の年に 記録した最多三塁打19でした。

#この頃のブルックリンの愛称は、「ドジャース」ではなく、「ロビンズ」。 レトロシートでは、ドジャースの名前は、1932年から登場します。

彼の実働は1936年までで、1937年の出場はわずか17試合。 以降彼のキャリアは、1938〜1944の間7年間も空白で、1945年に 42歳で1年だけ現役復帰。同年9月16日、ロイド・ウェイナーと同じ日に 現役にピリオドをうちました。

#想像ですが、ヤンキースのライバル、ブルックリン・ドジャースの オールドファンのおじいちゃんあたりが、「ワシにとってのベーブは、ルース じゃなくて、ハーマンじゃよ」…とか、語り草にしそうな感じです。


ヘイニー・マナッシュ (ブラウンズ 1928)

1923年デトロイトでデビュー。左投げ左打ち。左翼手。 通算2524安打。生涯打率.330。首位打者1回、200安打4度。 6フィート/200ポンドで、当時の選手の中では大男だったかと。 デビュー当時、まだタイ・カッブは監督兼任で、前述のハリー・ハイルマン と共に外野を固めていました。 目を引くのが死球数。1年目17、2年目16はリーグ最多。 3年目以降6個以下なので、意図的だったとしか思えない(笑)。

1928年にブラウンズに移籍。ブラウンズは前年にシスラーが引退していて、 翌年彼が移籍し241安打を記録。後を継ぐ形になりました。 チームはルース、ゲーリッグらが君臨するヤンキースに歯が立たなかったものの、 個人成績は堂々渡り合っていました。二塁打47はAL最多、打率はゲーリッグ より4厘高い.378。打点はヤンキース勢以外ではトップの108。 1930年にセネタースへ。1933年に、再度221安打&最多三塁打の活躍でワールド シリーズに臨むも敗退。ブルックリンで最後の輝きを見せるも、1938年戦力外。 拾われたピッツバーグでは、まだロイド&ポール・ウェイナー健在で、 彼の居場所はありませんでした。

240安打
ウェード・ボッグス (レッドソックス 1985)

1982年デビュー。右投げ左打ち。三塁手。 通算3010安打。生涯打率.328。首位打者5回。 7年連続200安打&100得点。

ヒゲがトレードマークだった、当時ボストンの中心打者。200安打は2年目から 到達し始め、240安打は4年目の記録。この頃はリードオフ役で、ドワイト・エバンスと 代わる代わる1・2番を打っていたよう。 1988年あたりから主軸3番に座り始めると共に、彼を襲ったのが度重なる敬遠。 1987年から6年続けてリーグ最多敬遠。あおりで200安打&100得点もストップ。

#「あのヒゲ面、見るのもイヤ」だった投手が、何人もいたことと察します。

彼のいたボストンは、1986年から3度チャンピオンシップ進出も、世界一になれず。 1993年FAでヤンキースへ。ところがヤンキースも1993〜1995はチャンピオンシップに 進出できず。念願の世界一となったのは、1996年のことでした。

終の棲家はタンパベイ。1999年にここで3000本安打を達成して引退。 球団拡張がなかったら、彼の3000本安打到達はなかったでしょうね。

面白いのは、投手として登板した記録があること。 いずれも大負けの敗戦処理としてのファンサービスだったようです。 投手記録は、2回1/3、被安打3、自責1、奪三振2、防御率3.86。 十分機能してます(笑)

#写真も見ましたが、打席の顔は荒くれ者。でも選手年鑑なんかの スナップ写真だと、人のいいカントリーな親父風でして(笑)。


ダリン・アースタード (エンゼルス 2000)

1996年デビュー。9年目。左投げ左打ち。一塁兼外野手。 2003年までの通算で、1172安打、打率.289。

エンゼルス生え抜きの彼の前に、「天使が舞い降りた」のが2000年。

それまで年間150-60安打、.300弱だったのが、2000年にソーシアが 外野にコンバートしたとたん、前年比安打100本増し、打率1割増し、 三振だけ2割引。「化けた!」と思いきや、2001年打撃成績は、それまでの 彼にほぼ逆戻りしてしまいました。本人も何故あれだけ打てたのか、 不思議だったのでは。

#今日(9月22日)の試合休んでましたね。やりにくかったかな。 もし出てたら、一塁上でイチローのお尻をグラブでポン、なんてやって、 談笑するシーンも見られたことでしょうに。またコメント求められたりするんだろうな。

239安打
ロッド・カルー (ツインズ 1977)

パナマ生まれ。1967年デビュー。右投げ左打ち。二塁手⇒一塁手。 通算3053安打。生涯打率.328。首位打者7回。

大きくかがみ込んだ構え(クラウチングスタイル)が、印象的だった人です。 「安打製造機」がパワーを見せ始めるのは1973年あたりからで、 一塁にコンバートされた1976年以降、相手にとって脅威の存在となり、 239安打を打った1977年あたりは、リーグ最多敬遠が3度(75,77,78年)。 これだけの高打率で、今ならリードオフマンで打順1番…と思いきや、 生涯最も多い打順は「2番」。最も打ち慣れていたのかと。

1979年に1対4トレードでエンゼルスへ。40歳になるまで打率は3割前後と安定 した活躍。オールスターの常連でもありました。 1985年引退。背番号29は、ツインズ、エンゼルスで永久欠番。

もっと詳しく知りたい方はこちらを。

http://circlechange.com/doubledayfield/players/legend/RCarew.htm

#クラウチングスタイル…最近あまり見ない気がします。 この時期、高打率の打者はみんなやってたように思います。 カルー、ピート・ローズ、トニー・グウィンしかり。 日本のプロ野球にもいましたね。大洋で首位打者を取った、助っ人ミヤーンとか(懐)。

238安打
エド・デラハンティ (フィリーズ 1899)

1888年デビュー。右投げ右打ち。左翼手。 当初は内野も全てこなしていましたが、238安打を放った1898年は ほぼ外野手に専念していました。通算2596安打。生涯打率.346。 1890年別のリーグに引抜かれたようですが、チームが消滅したか、 1年でフィリーズに出戻り。 出場試合数が少ないなぁと思いましたが、ナショナルリーグ(NL)は1897年まで 1チーム130-140試合、150試合以上を行うようになったのは、1898年からだったようです。 そのため200安打到達は3回ですが、190安打以上が7回、.400超えが3回あります。 238安打は、試合数増の恩恵を受けて成し遂げられた一面もあるようです。

#140試合弱で200安打するのが、いかに至難の業か、判る気がします。

1902年からワシントン・セネターズに移籍、活躍するも、 1903年シーズン中に35歳で他界。 #"Died July 2, 1903, Niagara Falls,Ontario"…って、何か意味深です。


ドン・マッティングリー (ヤンキース 1986)

現ヤンキースコーチ。左投げ左打ち。一塁手。 1982年デビュー。通算2153安打。生涯打率.307。 ヤンキース生え抜きの3番打者。首位打者1回、打点王1回。 また名一塁手でもあったようです。 キャリアを見る限り「中距離砲」というべき人で、 二塁打の多さ&三塁打の少なさ(苦笑)が目を引きます。今でいうMr.ツーベース。 238安打を打った86年含め、84-86年3年連続で、二塁打数リーグ最多。 1986年の彼は「ブルージェイ・ハンター」であり、 また「ボストンの天敵」でもありました。 対ブルージェイズ エキシビション・スタジアム:32打数18安打(.563) ヤンキースタジアム:52打数27安打(.519) 対レッドソックス フェンウェイ・パーク:32打数15安打(.469) ヤンキースタジアム:59打数22安打(.373) #決して両チームが弱かったわけではありません。 #この年の東地区優勝はボストン、トロントは勝ち越してます。 #240安打の記録を持つボッグス(レッドソックス)と首位打者争いをした結果かも。

毛色の変わったところでは、「5月3日テキサス戦で1試合3犠飛」なんて 記録もあります。

237安打
ハフ・ダフィー (ボストン・ブレーブス 1894)

1888年にシカゴでデビュー。右投げ右打ち。外野手。 通算2282安打、生涯打率.324。 キャリア順に右翼⇒中堅⇒左翼とポジションを移っています。 4年目に生まれ故郷ボストンに移籍、237安打はキャリア7年目に125試合で達成した記録。 この年、HR18,打点145,打率.440(!!)で三冠王。出塁率なんと.502。 …手がつけられなかった状態ですね。 その後1900年のアメリカンリーグ創設時に引き抜かれ、 ミルウォーキー、フィラデルフィアの監督兼任選手に。 1906年引退。この年、1回だけ打席に立っていて、 「引退試合みたいなもんかなぁ」と、勝手に想像しています。 アメリカンリーグ創設期の混乱に巻き込まれたお陰で、彼のキャリアには、 "4つのリーグでプレーする"という、特異な経歴が残りました。

#19世紀の記録は、今とは異質です。ホント。 アメリカンリーグ(AL)がまだなかったし、「フォアボール」のルールも適用されて すぐの頃じゃなかったかと。 #メジャーJPの所属チーム表記は"ブレーブス"ですが、レトロシートでは、 "Boston Beaneaters"となってました。あんまり強そうじゃない名前(笑) #4割、監督兼任、リーグ創設期…ということで、 かつてのパリーグの強打者「白仁天」選手を思い出しました。 (元ライオンズ。韓国プロ野球創設時に帰国、その年監督兼任で4割打った人)


ハリー・ハイルマン (タイガース 1921)

1914年デビュー。右投げ右打ち。右翼手。 通算2660安打。生涯打率.342。首位打者4回(4回とも打率.390超)。 当初一塁手でしたが、1921年に右翼コンバートが成功したか、237安打をマーク。 ハイルマンの記録の裏には、当時の兼任監督タイ・カッブの眼力も一役買って いたかもしれません。いわば「カッブの申し子」かと。 1921年のタイガースのロスターを見ると、おそらく主軸がハイルマン、カッブ、 ヴィーチの外野3人。逆に内野手は全員HR5本以下と、とっても小粒(笑)。 1930年シンシナチに金銭トレード。翌年シーズンを丸々棒にふったよう。 1932年に復帰した時、右翼は既にベイブ・ハーマン(後に241安打)のものになって いました。


ポール・ウェイナー (パイレーツ 1927)

1926年デビュー、左投げ左打ち。右翼手。 通算3152安打。生涯打率.333。シーズン200安打は実に8度。 この年ピッツバーグは、ルーキーのロイド・ウェイナー223安打、 ポール・ウェイナー237安打と、「イチローが二人いた(笑)」チームでしたが、 いかんせん本塁打10の彼が一番の長距離砲だったようで、ワールドシリーズは この年60本塁打を打ったルースらのヤンキースにスイープされてしまいました。 1940年にピッツバーグを離れ、ドジャース、レッドソックス、ヤンキースと放浪。 1945年5月3日に、"Released by Yankees"とあり、解雇のような形での引退だったかと。


ジョー・メドウィック (カージナルス 1937)

1932年デビュー。右投げ右打ち。左翼手。 5フィート10インチ&187LBSって、かなり太目? 通算2471安打。生涯打率.324。1936,37,38に3年連続打点王。 1937年はキャリアハイの年で、237安打、154打点、31HR、打率.374で三冠王。 他にも最多打数&得点王&最多二塁打&長打率1位と、地味なものも含め(笑) リーグ7冠。この年1試合しか休んでおらず、カージナルスの主砲として 大活躍したようです。チームは4位と今ひとつだったんですがね。

#それますが、同年ALの本塁打王は、ジョー・ディマジオ(46本)でした。

1940年からドジャース、ジャイアンツ、レッドソックス、ヤンキースを転々。 古巣セントルイスへ戻ったのは、戦争が終わった1947年のことでした。

#どうも、1930年代に活躍した人達のキャリアには、その後の戦争の影が 見え隠れします。

236安打
ジャック・トービン(ブラウンズ 1921)

1914年デビュー。左投げ左打ち。右翼手。通算1906安打。生涯打率.309。体格はイチローより一回り小柄(5フィート8インチ/142LBS)。ただパンチ力があったようで、1921年は236安打とともに、リーグ最多三塁打18を記録。打撃タイトルはほぼ無縁。このときのブラウンズにジョージ・シスラーがいたことも影響しているのでしょう。中軸を打っていたかどうかは読み取れませんが、全盛期のシスラーの右腕とも言える人です。

#ちなみにシスラーは1924年から監督兼任でした。

三年目にブラウンズに移籍も、その年故障したか翌年は出場記録なし。1918年復帰後打ち始め、1920-23に4年連続200安打&.300を記録。

1925年以降は、新進の右翼手ハリー・ライスにポジションを譲る形で、セネターズ→レッドソックスと渡り歩く。1927年は意地を見せたのか、.310の打率を残して引退。